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2009年5月20日水曜日

知覧よ…


今から約2年前、鹿児島に日帰りの出張がありました。
無事仕事も終え、出張依頼のお取引先の担当者の方が、鹿児島空港まで車で送ってくださるということになり、その時の車中で交わした会話です。

「新井田さん、知覧って知ってますか?」
「チランですか?いや、知らないです。」
「戦時中、特攻隊の飛行場だったところです。」
「へ~、そうだったんですか…」
「資料館もありますので、また鹿児島に来る機会があれば、是非1度行ってみてください。先日、小泉首相が来て、号泣したそうですよ。」
「今から行けないですか?」
「もう夕方なんで…、資料館も5時までですし…」
「いずれ必ず行きたいと思います。」

そして、2009年5月5日、8時45分、私はある種約束をやっと果たしたような感慨を胸に、知覧特攻平和会館の前に立っていました。今回の行き当たりばったりの九州の放浪に、一つだけ絶対に外せなかった場所は、ここ知覧でした。

私は右派でも左派でもありませんし、常にニュートラルな立場で物事を考えようと勤めています。特攻隊に人一倍興味があるわけでもありません。ただ、小学生だった頃、1000名前後の若干20歳前後の青年が、劣勢の日本軍のため、連合艦隊に飛行機もろとも突撃したという歴史を知らされました。
当時の私にはあまりにも強烈な記憶となり、しばらくの間、飛行機を見るたびに特攻隊の事が脳裏をよぎっていた時期がありました。

知覧特攻平和会館には、復元されたゼロ戦が展示されていたり、特攻隊にまつわるいろいろな資料もあり、とても興味をそそられましたが、しばらく歩くと、特攻隊員全員の遺書が
ショーケース内に展示されていました。

その最初の遺書を読み始めて15秒後、私は、涙で文字が全く見えなくなり、目頭をどんなに強く押さえてもとめどなく涙があふれ、人目もあるので「泣くまい」とどんなに気を紛らわそうとしても、あまりの悲しさ、辛さ、やるせなさで、天を仰ぎ、両手で目を覆い、しばらく立ち尽くしてしまいました。
何度も押し寄せる慟哭で、声が出そうになるのを必死でこらえるのが精一杯でした。

写真は特攻前夜に宿泊するための「三角兵舎」です。
まさに、大きなうさぎ小屋のようなところでした。

下記に特に印象深かった遺書を記します。
(本当は原書を読んでいただければ、どれほど心を打たれることか…)

本当に心の優しい方だったことがしのばれます。
詩人の魂をひしひしと感じられる遺書です。
「残念」とはまさにこの事だと思います。
どれほど彼は「無念」だったことでしょう…。

最後に一つだけお伝えしたいことがあります。1036名の特攻隊員の中に、6名の韓国人と、4名の朝鮮人の方々が含まれていたことを…。





<出撃前夜>

色々有難うございました。
別に言うこともありません。
唯有難くうれしくあります。
最後の時まで決して御恩は忘れません。
月なみな事しか出て来ません。
姉妹の皆さん、
いよいよ本当にお別れ。
今でも例のごとくギャアギャア皆とさわいでいます。
哲学的な死生観も今の小生には書物の内容でしかありません。
国のため死ぬよろこびを痛切に感じています。
在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。
時間がありません。
ただ心から有難うございました。
笑ってこれから床に入ります。
オヤスミ

<出撃当日>

あんまり緑が美しい
今日これから 
死にに行く事すら忘れてしまいそうだ。
真青な空
ぽかんと浮ぶ白い雲
6月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に

小鳥の声がたのしそう
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日十三時三十五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの
祖国よ
さらば
使いなれた
万年筆を"かたみ"に
送ります。

大出博紹

昭和20年4月11日出撃戦死 大阪府出身 当時二十二歳 

合掌

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