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2007年4月10日火曜日

スプリングキャンプ中のイチロー






ご存知、イチローです。
既に大リーグは開幕していますが、キャンプ中のイチローの写真です。

以前から少しお話させていただいておりますが、私には18才になるアメリカのシアトルの大学に在学中の長男がおり、そのステイ先のホストマザーが旅行代理店の仕事に携わっており、先月「マリナーズのスプリングキャンプをアリゾナまで見に行きましょうツアー」みたいな企画があったらしく、息子がそれに便乗し、スプリングキャンプ中の思いっきり笑顔のイチローをデジカメで撮りました・・・と言いたいところですが・・・

日本人である息子は、当然、イチローを見てミーハー気分でパチパチデジカメで撮りまくったらしいのですが、画素数が少ない古いデジカメだったため、ズームで撮ってみたらピンボケばかり。がっかりしているところへ、親切なツアー客の
イチローファンの一人が(全員が70歳以上のリタイアして暇をもてあましているおじいさん、おばあさんばかりだったらしい)、最高の笑顔のイチローの写真をプレゼントしてくれたのがこのブログの写真です。

2007年2月3日土曜日

チェルシーホテル






ここはニューヨークのグリニッジビレッジ近くのかの有名な「チェルシーホテル」(撮影:新井田真美)です。
宿泊客の8割~9割が芸術家(それもかなりの前衛)という超レアなというか、カルトなホテルです。

床石は、おそらくタソスホワイト、ボーダー状に赤みがかったロッソベロナが張ってあります。タソスホワイトは非常に柔らかいため、石が磨り減って微妙に波打っているのが
写真でも分かります。メンテナンスは、アメリカお決まりのケミカル反応によるツヤ出しだと思われます。
(日本製の#8000のダイヤで磨きまくりたい!!)

壁にかかっている絵画の統一感のなさがシビれ(笑え?)ます。
さすが、チェルシーホテルです。
しかし、何と言ってもチェルシーホテルと言えば、個人的には、ボブ・ディランが一番才気走っていた60年代に出した名盤「ブロンドオンブロンド」が思い出されます。
当時このアルバムは、世界初の2枚組みLPということでも有名になりましたが、私は未だ中1か中2位で、そのアルバムが欲しくて欲しくて、何度もレコード店に足を運んだのですが、値段が高すぎて(当時で4,500円もしていた!)どうしても買うことができませんでした。そのアルバムのD面に1曲のみ入っている、20数分以上にも及ぶ「ローランドの悲しい目の乙女」を一晩でボブ・ディランが一気に書き上げたホテルという感慨が強いです。この曲は、後に妻となったサラ(80年代には離婚した)に捧げた曲です。
ボブ・ディランは声がだみ声だし、念仏みたいに歌うので毛嫌いする人(私の妻も含め)が多いのが残念ですが、歌詞のうまさは本当に惚れ惚れします。
ボブ・ディランの本名はロバート・ジンママンというジンマシンのようなさえない名前ですが、ディランという芸名は、実はチェルシーホテルで亡くなったイギリスの詩人、ディラン・トーマスからパクっています。

どうしてここまでボブ・ディランのことを詳しく知っているのかというと、私は10代~20代にかけ一時期ディランにはまりまくっていた時期があり、ボブ・ディランの日本初公演のコンサートの電話予約開始初日に、朝から電話の前に座り電話をかけまくったという、今思えばまさに「おっかけ」でした。

2007年1月4日木曜日

ボノ(U2)の豪邸


明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

突然ですが、新春早々のサプライズです。
この豪邸は、アイルランドが生んだ世界的ロックグループ"U2"のボーカリスト、ボノの
アイルランドの自宅風景です。これは全景ではなくほんの一部で、他に大きなプールや
テニスコート、広大なきれいに手入れされた庭が、海に面してどこまでも広がっています。

実はこのスナップは、2005年9月に、長男がダブリンの高校に留学していた時期
(現在はアイルランドは飽きてアメリカのシアトルの大学に在学中です)に、仲のいい友達と一緒に行って撮ったスナップ写真です。私はボノにはほとんど関心がなく、完全に忘れ去っていたのですが、去年の12月にボノが来日して、サングラスを安倍首相にプレゼントをしたことをニュースで知り、長男のスナップ写真を思い出し、ブログに載せることにしました。

ボノは、アフリカの最貧国のODAの債務の免除をするように、先進諸国の首相クラスの
人たちに訴えていることで有名ですが、確かに現在はミュージシャンというよりは、社会派の活動家という風情です。私の率直な感想としては、ボノはミュージシャンとしての自分の才能の枯渇を感じ(例えばボーカリストとしてロバートプラントは超えられないとか)、それを紛らわそうとして、社会派の活動をしているような気がしてなりません。
やはり、90年代にプロデューサーのブライアン・イーノにかわいがられていた頃が
絶頂期だったのではないでしょうか。